
今回は写真の話と直接関係ありませんが少し変わったことを書いてみようかと思います。
いきなりスピリチュアルですが…龍って改めて考えると不思議ですよね。架空の生き物なのに世界中どこへ行ってもドラゴンの伝説はありますし、神社やお寺に行くとお堂などに龍の透かし彫りがあったりします。
龍っていったい何でしょうね。最近、神社や瞑想などスピリチュアルにドハマりしている私ですが、龍神や日本の神話を学ぶたびに写真の世界に通ずるものがあるなと感じております。
龍、龍神は普段は私たちの目には見えませんが、この世界をとりまくエネルギーに何らかの影響を及ぼしている存在のようです。日本書紀や古事記などの神話を読むと日本には高天の原の神様や八百万の神様など様々な神様が存在しますが、とりわけ龍神は特別な存在で美しさを好む神様なのだそうです。
少々話が脱線しますが究極のツーリング写真では以前に黄金比の話をしました。黄金比1:1.168、白銀比1:14142、大和比や青銅比など芸術の世界には神秘的な美しい比率の法則があるものです。黄金比で身近な例を挙げますとアップルコンピューターのリンゴのマークやGoogleのロゴなど、その縦横比は黄金比なのです。ドラえもんの縦横比は1:1.1414の白銀比、ハローキティも白銀比、くまもんは全体が黄金比、顔の部分は白銀比です。
実は龍の存在は黄金比1:1.618と密接な関係があるのだそうです。
ドラえもんなどのキャラクターの縦横比は1:1.1414の白銀比。
アップルのロゴは二進数(1、2、3、5、8、13…)によって作られた黄金比でできている。
二進数で組み合わせた正方形を曲線で繋ぐとこのような螺旋になります。これをフィボナッチスパイラルといいます。
フィボナッチスパイラル、別名黄金螺旋はダビンチのモナリザなど多くの芸術作品にも用いられています。上は有名な浮世絵、葛飾北斎の神奈川沖波浦ですが見事にスパイラル曲線と合致しています。
1:1.618の黄金比であるフィボナッチスパイラル曲線こそが自然界に存在する目に見えないエネルギー、それが龍である!というのです。
「そんなバカな…」と皆さまが疑いたくなる気持ちは分かります。でも私は信じます。たとえば無風の時に焚火をしていると上に上がる煙は一直線ではありませんよね。龍のようなうねりを描いて空間を舞っているようにも見えませんか?そんな場面からも私たちが生きているこの空間には龍がいるのかもしれない…と思えるのです。
フィボナッチスパイラルは自然界のいたるところに存在していて、海岸線などの自然の地形、花や葉っぱ、貝殻、私たちの体内にある細胞やDNAもこの比率を持った螺旋構造が存在しているのです。
つまり龍はこの時空のどこかに存在をしていて自然界のあらゆる部分にそのエネルギーを及ぼしているのです。だから龍は美しいものを特別好む神様なのです。
私たち人間は老若男女問わず、誰でも美醜の判断基準を持ち合わせています。ジャガーEタイプは自動車の歴史の中で最も美しい車と称賛され、GSX1100S刀をカッコ悪いと言うバイク乗りはいません。多くの中高年男性から絶大な支持を受ける深田恭子さんも理屈抜きに素敵ですよね。もちろん好みの違いこそありますがここで言いたいのは美しいもの、醜いものの判断基準は誰でも生まれながらに持っているということです。
それは何故でしょう?私たち人間の存在そのものも自然界の一部であり、その血液、細胞、DNAの中に龍が及ぼした黄金比が存在しているからではないでしょうか。
私の読んだある書籍にはこの世には美しいものとそうでないものの二つしか存在しないとあります。正しい正しくない、善も悪もないのです。これら二極化した考えは人の持つ曖昧な基準によって下されるものであり、見方を変えたりタイミングが変わるだけで両者の関係は容易に逆転したりもします。たしかに嫌なヤツだと思っていた人が実はいい人だったとか、それは間違っている!と思っていたことが実は正しかったなど誰でも経験があると思います。
そう考えると龍の黄金比に合致している美しいものと、黄金比とはほど遠い美しくないもの、この両者こそがこの世に存在する二極化して考えてよい唯一のものと言えそうですね。
これはずいぶん以前に北海道の大沼から撮影した北海道駒ヶ岳の様子です。改めてこの写真を見ると前景に使った木の様子が龍の姿に見えなくもないです。木が龍の姿を模して成長したのでしょうか?それとも風に耐えるためや日光を効率よく浴びるためでしょうか…私は空間に存在する龍のエネルギーでこのような形に成長したのでは?と考えたいです。
森羅万象の話になりますが私たち人間が生きているこの世は三次元の空間と一定に流れる時間、つまり時空です。そこに科学者でも存在理由を説明できない数学的曲線エネルギーがあり、そのエネルギーが自然界を形成している。なぜ黄金比は自然界にここまで存在しているのか?を科学で証明できないのであれば「それは龍だ」と言っても異論は唱えることはできません。
写真は瞬間芸術です。三次元の空間と一定に流れる時間が存在する現実の様子を、二次元の静止画にする記録芸術です。そこに龍の存在や天之御中主神(アメノミナカヌシ)による光などが表現できればARTの枠を超えたスピリチュアルな作品も成立する訳です。
天之御中主神とは万物生成化育の根元神である造化三神(天之御中主神、高御産巣日、神産巣日)の一柱です。日本の神話で最初の男女と言われる伊邪那岐、伊邪那美より以前の神様。宇宙に漂うように存在する姿のない神様でご神体は北極星(または地球の中心)。いまこの瞬間の神様、この世の中心の神様と言われます。…そう「瞬間」。写真の世界に深く入れば入るほど切り離せないワードが「瞬間」です。
冒頭で神様や龍などスピリチュアルな世界には意外なほど写真に通ずるものがある・・・と書いたのはこの部分にあり、黄金比を好む龍の神様、瞬間を司る天之御中主神などを信じることで、新たなステージが待っているいるようにも感じるのです。
ところで先日、龍に関わる本をキャンプ場で朝から夜中までずっと読んでいました。とっても興味深くて一気読みしたら居てもたってもいられなくなり、翌日は崇敬している館山市の安房神社に参拝へ行きました。ちなみに安房神社は金運の神様として人気の神社ですが、正しくは金運というより産業や事業の神様です。主祭神の天太玉命(アメノフトタマノミコト)は占い、ひらめき、思考などの源になる感覚の神様でもあります。
お参りの帰り、よく行く南房総市の海岸で夕景を拝んでいこうと思い立ち寄りました。そこで不思議な体験をしました。
海の向こうに浮かぶ伊豆大島の上に火を噴くような龍が現れたのです。龍の形をした雲は数分で別の形になりましたが、わずか数秒、目の部分に太陽が重なり私と視線を合わせて何かを伝えてくれたような気がしました。
この世には私たちの知らない不思議なことがたくさんあるものですね。目に見えるものしか信じないようでは駄目で、それは神道や仏教などの信仰心にも写真にも言える共通のことです。
いよいよ究極のツーリング写真は宗教の世界へと突入しました!!
風の感触、草のかおり、さざ波の音…
本来は写真では伝わらないものを、写真を見てくれる人に感じ取ってもらいたい。
その為にできることは何か?知識、経験を元に工夫をこらし納得できるまで撮り切る。
バイクで走るときっとこんな風なんだろうな
むかし走ったがこんな風だったな
またバイクで旅立ちたくなった
そんな共感や想像を誘えれば素敵だ。
一方で撮った自分もその一枚をみて「あのときこうだった」と思い出せる。
記憶の中で曖昧だった風景は写真を見ることで詳細が蘇り、その時の音、におい、感触が伝わってくる。それは懐かしいともちょっと違う不思議な感じ。
写真は事実の全てを写す必要はなくて、その時の感動を抽出するように撮るもの。それができれば後で見返したときに特別な心象風景となってくれます。
まだ道半ばですが憧れの一枚を求めて旅を続けたいです。
究極のツーリング写真 touring-photography.com 読者の皆さま、気が付くともう7月、令和三年も半分が過ぎてしまいましたね。東京オリンピック直前で再びコロナは感染拡大の兆候がみえますが…本当に日本は大丈夫なのでしょうか。オリンピックを無事に終えて、できれば年内には人々の暮らしが平穏に戻ってほしいと願いたいです。
さて今回は私の地元である千葉県は房総半島のツーリング情報を書いてみたいと思います。千葉県といえば三方を海で囲まれた平べったい地形が特徴なのですが、今回は寺社仏閣を訪れる旅と題してパワースポット的なところをご紹介したいと思います。
房総のツーリングルートとして人気の養老清澄ライン。養老渓谷から清澄山をぬけて小湊に出るワインディングルートですが、その中間である鴨川市に日蓮宗清澄寺があります。千葉県は日蓮の縁の地として知られています。日蓮上人は小湊でお生まれになってここ清澄の山から日蓮宗を開宗されたとされます。
知恵の神様【虚空蔵菩薩】がありますので勉学、記憶力、事業などで頭を使う人にはご利益のある場所だと思います。
参拝はまずは本堂から。日蓮宗ですのでお題目「南無妙法蓮華経」をとなえて参拝しましょう。
本堂のお参りが済んだら日蓮上人が最初に南無妙法蓮華経をとなえた場所である旭が森、それから仏舎利塔も行ってみると良いと思います。仏舎利塔とは本来はお釈迦様のお骨や遺品が収められている塔なのですが、ここには恐らく収められていないと思います。しかしインド風の独特の塔は一見の価値ありです。
その他、境内にはご神木の千年杉やモリアオガエルのいる蓮池などパワースポット盛りだくさんです。
この蓮は清澄寺ではなく家の近所の池に咲いている古代蓮【大賀蓮】ですが何日か前に撮影したものです。蓮は濁った泥水の中でさえ清浄な花をつける。これをサンスクリッドで【サダルマ・プンダリーカ・スートラ】といいます。
このサダルマプンダリーカスートラを訳したのが日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」です。南無は信仰心の表明、妙は不思議な力、素敵な力といった意味、法はそのまま、蓮のお花のお経という事だそうです。私はお釈迦様の教えてくださった法華経を信仰します、という意味でしょうか。
私も世の中が例え泥水のようであっても清浄な花を咲かせる蓮のような存在でありたいです。
安房神社は館山市にあり人気ツーリングルート房総フラワーラインの南側に位置するのでツーリングの立ち寄りに最適です。南房総屈指のパワースポットで、敏感な人なら神社の近くに行くだけで安らかな気配を感じるはずです。
神社には一の宮、二の宮…と格付けがあるのですが、安房神社は最も格式の高い一の宮です。産業の神様、金運向上としても有名なのでビジネスマンや事業を成就させたい人にも信仰されています。主祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)であり阿波忌部の移住からの創建となるので阿波、つまり現在の徳島県から渡ってきたとされます。千葉県の南部に安房(あわ)とよばれる地域の由来は徳島県の阿波が由来であるのですね。
神聖なる場所ですので二礼二拍手一礼など正しい作法で参拝しましょう。
3つ目はまたまた館山市ですが洲崎神社(すのさきじんじゃ)です。ここも神社として最も格式高い一の宮です。館山市というのは一の宮の神社が二つもあるのですから凄いですね。ちなみに千葉県にはあと二つ一の宮の神社があって、サーフィンで有名な一宮町にある玉前神社と香取市の香取神宮ですね。
ここ洲崎神社は洲崎灯台のすぐ近くで、こちらも南房総のツーリングルートで立ち寄りやすい立地でございます。洲崎灯台といえば以前にご紹介したキャンプ場 お台場海浜庭園もありますので、キャンプで朝食を食べたあとの散歩に立ち寄るのも良いかもしれません。
洲崎神社の本殿は高台にあるので155段もある石積階段を登っていきます。真夏に行くとキツいですが真冬にいけば海から見える富士山が絶景ですよ。祀られているのは天比理刀咩命(アメノヒリノメノミコト)で忌部一族の祖神である天太玉命の后神…つまり奥様でしょうかね。参拝が終わったら階段を降りて国道を渡った先にある海岸もお勧めでございます。
ところで神社とお寺の違いについて子供でも分かるように説明して、と言われると口ごもってしまいそうですが、ここでちょっと勉強し直してみましょう。
神社は神道(しんとう)といって日本古来からある神様の信仰、お寺はインドから入ってきたお釈迦様の教えを説いた仏教ですね。両者は別のものですが日本では神道と仏教の両方の習慣を大切にしているのですね。
神道は八百万(やおよろず)の神とよく言われ山、海などの場所が神様として崇められる場合もあれば木、岩といった物が対象になったり、天照大神(あまてらすおおみかみ)など人が神様となる場合もあります。で、そういった神様を祀る祭祀(さいし)を行う場所が神社です。神道にはいくつかの分類があり、神社神道、天皇神道、靖国神社を象徴とする国家神道(第二次大戦後GHQによって廃止)などがあります。
神社とお寺の見分け方は簡単で鳥居があり仏像が無いのが神社、お坊さんがそこに住んでいて本堂に如来像や菩薩像があるのがお寺です。
お寺の場合は宗派があり敷地内にはお墓があることが多いです。お釈迦様の教えを説いた過去の高僧によって様々な宗派が存在します。それぞれに解釈が異なるのでお経やお題目も違ってくるようです。本来、仏教は修行を積んで悟りを開くことを目的としますが、それは大変険しい道なので現代の日本においては人々の衆生救済を願うものとしているようです。
私は月に4~5回くらいは神社かお寺に参拝をしていますよ。人間とは弱いもので欲望の先には何も無いと分かっていながら、欲望に支配され煩悩に飲まれるものです。もっとお金があればいいのに、人に立派だと思われたい、こういった自我の煩悩に嫌気がさしたら寺社仏閣に足を運んでみましょう。
今回はこの辺で!!
「いい写真を撮りたい」これはカメラを手にする全ての人の共通の願いですね。
でもいい写真って誰がどう決めるの??いい写真の定義ってあるの?
一枚のプリントがオークションで高額で取引されるようなART写真界であれば、キュレーターやコレクターがその価値を決めてくれます。しかしARTといえど資本主義社会なので「いい写真」を絶対値で評価するのはやはり金額です。
一般写真界にはそのような絶対値で評価できる基準は何もありません。いつも撮る人、見る人が主観的にいい写真を決めているのが現状です。
一般写真界における「いい写真」とは何だろう?
ある人は「撮った自分が【いい】と思った写真がいい写真である…」と言いました。
なるほど、これは確かにいい写真における絶対条件と言えそうです。
自分がいいと思わない写真を撮って、それが好評を博したとしても
それは偽りの表現となります。誰だって自分に嘘はつきたくないですからね。
撮った自分がいいと思った写真であること…でもコレって当たり前過ぎると思いませんか。
こういった意見が存在している…ということは自分でいい写真だと思わない写真を撮っている人が多いことを意味しているのでしょうか。何だか寂しいですね…
それ以外に何かないでしょうか?
見る人の趣味趣向に合致していること。
これも少なからずあると思います。例えば風景写真であれば風景写真の愛好家に見てもらう、といった具合にジャンル別に発表する場を選べば「いい写真」は成立しやすいです。
夕陽に焼ける富士山、美瑛の丘にかかる虹、美しい女性、可愛い子猫…これら多くの人に受け入れやすい被写体であれば、誰に見せても評価される写真になります。一方でオートバイが写った写真をオートバイに対して良いイメージを持っていない人に見せれば良くは思わないでしょう…
写真に対する見識の深さについても作者と観賞者のレベルが合致していれば「いい写真ですね」という評価を得やすいものです。高度なARTとしての抽象的な作品を写真の見識の浅い人に見せても理解不能なものです。
「いい写真」であるか否かは見せる相手によって変わるものと言えそうですね。
世の中には実に多くの人が多種多様な解釈のもとで写真文化に触れています。
流行のものを追いかけたりカメラというテクノロジーの進化に関心を寄せたり。収入を得るための商用写真。ドキュメンタリーとして社会問題を提起するもの。記憶にとどめる目的で人生の大切な瞬間を記録するもの。本当にいろいろあります。
一枚の写真を自身の表現であると信念をもって挑むのであれば、これら一般に普及している写真文化の全てを対象に発表するのは如何なモノでしょうか?
分かる人にだけ見てもらえればいい…発表の場を慎重に選ぶこと。
私の場合は最近それでもいいと思うようになりました。むしろSNSで「いいね」をもらうような薄っぺらい評価を何百何千ともらうより、一人の人に心から共感してもらえた方が嬉しいです。
多くの人から「いい写真ですね」と評価されれば誰だって悪い気はしないですし、できればいつもそうでありたいと思うものです。しかしその欲望は宗教的に言うと煩悩のようなものかもしれません。
万人ウケはもうやめよう…という少しの勇気があれば簡単。そろそろ目覚めよう。
みんなと一緒の写真、大衆的な写真文化、カメラというテクノロジー・・・これらに塗れるのは退屈だよ…ほんとうにみんなが目指したいのはソコじゃないでしょ??
まずは試しに好奇心だけを頼りに奇妙な一枚を撮ってみようではないか。
案外それが「いい写真」なのかもしれませんね・・・
究極のツーリング写真 touring-photography.com 読者の皆さま、写真を楽しまれていますか?写真は現代となっては誰もが撮る当たり前の文化ですが、ただの記録写真ではなくぜひARTを意識して楽しまれてください。自分が芸術家の一員になった気持ちでやるとそれだけで違った作品が撮れるかもしれませんよ。
そう作品・・・ただの写真ではなく作品です。どんなに稚拙だなと感じても自分がARTを意識して一生懸命に撮ったものなられっきとした作品です。なぜなら貴方の見た一瞬のツーリング風景…それを切り取った写真とは記憶風景と重なり人生の財産へと昇華するからです。…いつか人生を振り返る時がきたとき、一枚の写真からバイク旅で見た一期一会の風景に深い想いを馳せるでしょう。
【あの日あの時、写真を撮ったからこそ記憶に焼き付くツーリング風景】私はいつもこんな言葉を大切に写真活動をしています。忘れちゃったら寂しいですものね。
さて今回は写真ビギナー向けに写真の基礎的なこととしてコントラストについて書いてみたいと思います。コントラストと聞くと誰でも一度は聞いたことのある単語だと思います。写真にはいろいろな用語がありますが例えばラチチュードとか回折現象とか難しいのがいっぱいあります。
でもコントラストなら…ご存じですよね??
なに?知らない?・・・大丈夫です、そんな貴方は今回の究極のツーリング写真で覚えちゃいましょう。コントラストとは「コントラストのある写真」などよく言われますが、一般的に写真内で明るい部分と暗い部分の差が大きいことをいいます。
差が大きいことによってメリハリがあり見る人に印象を与える心理的な効果があります。これは明るさに限ったことではなく、鮮やかなものと無彩なもの、派手なものと地味なもの、大型バイクと原付バイク、雄大な大地にぽつねんと一つの人影…とか。これらもコントラストとして印象効果があります。
背の大きい人と小さい人が2人一緒になっていると印象的ですよね。むかし仕事で取引先と待ち合わせをしていた時にこんな出来事がありました。そのお相手はけっこうな大きい会社なのにやってきたのは社長さんと一般社員さんの2人だったのです。普通は直属の上司を連れてきますよね。あるいは重要な取引なら役員と部長クラスとか。このギャップがとても印象的だったので今でもよく覚えています。
コントラストとは別の言い方をするとギャップが激しいことです。闇と光があるからこそ感動を受ける心理です。その昔、北海道ツーリングで冷たい雨に長時間打たれながら走り続け心折れそうになったとき、夕方になって突然晴れて美しい夕陽が現れました。黄金に輝く空が路面の水たまりに反射して、その美しさが心にしみわたり涙が出そうな想いをしたものです。もし雨に打たれて走ってきた経緯がなければ、それほど大きく感動はしなかったかもしれませんね。
言葉の使い方にもコントラストのようにギャップを利用した方法があります。例えば異性に好意を告白するとき「あなたのことが好きです」と言うよりも「嫌いになれればよいのに好きという気持ちが打ち勝ってしまう」と伝えた方が相手の心に強く響きます。「嫌い」と「好き」の相反する両者が一文に入ったことでギャップ(コントラスト)が生まれたのですね。
このように人は心理的にギャップを受けた時に強い印象を受けるものなのですね。一枚目の写真は強い逆光を受けての夕日のシーンですが、この写真に何か感想をつけるのであれば…そう「ドラマチック」ですよね。ゴールデン洋画劇場のエンディングみたい、という感想の方も多くおられますが、多くの方がそう感じるのであればゴールデン洋画劇場といえばこのシーン、と皆に強く印象に残されているという事ですね。
写真を見る人に印象を与えたいときに有効な「コントラストのある写真」。ではそういった写真を撮るにはどうしたら良いのでしょうか?
この3枚の写真をみて勘の良い人は既にお気づきかと思いますが・・・そうです逆光で撮るのです。明るいところと暗いところ、写真用語ではハイライトとシャドウと言うのでこのワードは是非覚えてください。ハイライトとシャドウによる写真への演出、それを得るには太陽光の存在が欠かせません。
ツーリング写真は基本構造は風景写真です。コントラストのある風景写真を撮るには晴天時、しっかり太陽光が出ているとき、順光(太陽を背にした)を避けて逆光、斜光で撮ればコントラストは得られます。
またはこの作品のように被写体などの影になっている部分を使う事でコントラストを得ることができます。太陽の向きと被写体の位置関係を意識すれば、このような写真はそれほど難しいものではありません。
逆光などの強い太陽光、あるいは日陰と日向の両方に向かって果敢にレンズを向けて撮るのですから、カメラの評価測光(AE)はイメージ通りに機能しない場合が多いです。その場合はイメージに合わせてしっかり露出補正を行いましょう。
ハイライトとシャドウ、この両者で演出するツーリング写真。以前に究極のツーリング写真ではカメラには写せる明るさの範囲があり、それをダイナミックレンジと呼びます、そしてその範囲には限りがあるものです・・・という解説をしました。
強烈な逆光ではハイライトかシャドウ側のどちらか一方(あるいは両方)はダイナミックレンジの範囲を超えて写せない(データでは0:真っ黒、255:真っ白)状況が発生しやすいです。黒ツブレ、白トビなどと呼びます。原則としてこういった現象が発生しないよう構図と露出をコントロールする必要があるのですが、これはビギナーの方には少々難しいので知識の片隅に置いておいてください。
簡単なポイントとしては画面内においてシャドウ部とハイライト部で構図にアンバランスがないか意識することです。上の倒れた漁船の作品を見て頂ければ分かりますが、シャドウ1:ハイライト2の比率で3分割されています。これが1:1だったり位置関係に秩序がなかったりすると、高コントラストの写真は例え露出補正しても、いとも簡単に失敗写真となります。
一般的に写真にコントラストはあった方が良いと言われますが、自由表現が許されたARTの世界なのですから絶対ではありません。そもそも天気が悪く曇天や雨天だったらコントラストのある写真が撮れません。
上の写真は低コントラストの作品で天気は曇天です。色付いたイチョウの様子を表現するのに作ったイメージはふんわりと柔らかさのある写真です。このように低コントラストで表現する写真の多くは力強さと相反する「やさしい」「やわらかい」という女性的な印象の写真です。
低コントラストの写真をイメージした場合、露出設定でハイキー(全体が明るめ)とし、レタッチでは明瞭度を下げてフォギーな仕上げにしてみましょう。
コントラストが低ければ「フラットな写真」などとも言いますが、ただフラットなだけでは印象が薄い写真になってしまいます。見る人に伝えるための演出の1つとしてフラットな場合は露出や色、明瞭度などを調整して表現しましょう。上の作品の場合は緑の仕上げ具合とホワイトバランスを慎重に調整した表現です。高コントラストもフラットもその景色、その被写体にぴったりな表現はどれであるか?を作者なりに考えて選択するのですね。
いかがでしたか?知っているようで知らない…写真のコントラスト。辞書で調べると並置されているものごと、近縁のものごとが大きく異なっていること。色、トーン、形などの差異。とあります。
私はよく裏磐梯にツーリングに行くのですが、ゴールドライン、レイクライン、白布峠とワインディングを堪能し、その興奮が冷めぬ直後に諸橋近代美術館でART鑑賞をするのが大好きです。バイクを降りた直後のドーパミン、アドレナリン分泌状態で静まり返った美術館でエンドルフィン、セロトニンを分泌し快楽の報酬物質の悦にひたるのです。同じことを箱根でもやったことがあります。芦ノ湖スカイライン、伊豆スカイラン、ターンパイクなどを走ってポーラ美術館に行くのです。このギャップが最高の快楽ですのでぜひ皆さまも試してみてください。
究極のツーリング写真 touring-photography.com 読者の皆さま、いかがなお正月をお過ごしでしょうか?もう初詣は行かれましたか?今年は新型コロナウイルスの影響もあって分散して参拝するよう呼びかけられていますね。
私はまだ初詣に出ていませんが、近くに蘇我比咩(そがひめ)神社という小さな社があり、まずはそこに初詣しようと思います。この神社には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に関わる言い伝えがあります。昔、日本武尊が東国統一の勅命を受け、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を連れて軍船に乗って千葉沖にきました。その時に激しい嵐に遭遇し「龍神の怒りに触れた」と察した弟橘姫5人は海に身を投じて荒れ狂う嵐を鎮めたとか。そして5人のうちの一人である蘇我大臣の娘が現在の蘇我の海岸に流れ着いたそうです。
海に身を投じた5人の姫。そのおかげで日本武尊は東国に無事に上陸できたのですね。失った弟橘姫を悲しみその地を離れる(去る)ことのできない尊(君)、から「君、去らず」で「木更津」という地名になりました。ちなみに袖ケ浦は姫たちの衣(袖)が流れ着いた海岸であることからその地名がついたそうです。ヤンキーのイメージが少しは中和されたでしょうか…。
さて今回のツーリング写真解説では具体的な撮影ノウハウではなく、前回の投稿で「好きなものを好きなように撮る」と書いたので、そのことについて作例をもとに説明したいと思います。
「好きなものを好きなように撮る」誰が??自分が好きなものです。
よくいい写真を撮るにはどうすべきか?という議論で構図とか露出とか、フレーミングとか比率とか言われますが、そういったものの多くは写真の構造に関わることだと思います。
写真の構造とは見る人がパッと見た瞬間の印象や安定、あるいは表現したい一つのための手法であったり、案内図のように機能させることです。写真という表現において構造はあくまで構造にすぎず核心ではないのですね。
では核心は何か?というとそれを言葉で説明するのは極めて曖昧で、この場で私がこうであろうと言っても多くの方はピンとこないと思います。しかしそれをできる限り言葉にするのであれば、撮影者の好きなモノ、コト、風景であり、その特徴を受けて心が何らかの反応を示した瞬間を一枚にすることです。…よく分からないですよね。
上の作品は私が房総半島をツーリングするときに好んで立ち寄る漁港の風景です。海、漁村、岩場、廃船、港、ハマダイコンの花、漁港の野良猫…これらが好きなんです。この作品の被写体となっている廃船は、昨年の台風15号で倒れてしまいこのような状態になっていました。船主もこの世を去り役目を終えた船体が静かにこの地に眠っている…といった具合に一つの物語に想像を馳せます。
日本じゃないみたい!といった絶景、映えするフォトジェスポット、珍しいものや美しいものを強欲に追いかけるのではありません。それとは対極に誰も見向きもしないようなもの寂しげなものや特段美しくもないが心の琴線に触れるような自然風景。素朴な郷愁感とでも言いますか、とにかく私が個人的にバイク旅に抱いている感情を象徴するような風景や被写体たち。それらに出会うと「撮りたい」という写欲が湧きたちpassionとなり撮影が開始されます。
35mmというレンズは本当にツーリングで出会った被写体を撮るのにぴったりな画角だと思います。メイン被写体となる船体にぐっと寄っても背景の範囲は適度に広角なので、そこが田舎の漁港である雰囲気がよく伝わると思います。この時は太陽の向きに注視し斜光を生かした構図を作ってみました。日向と日陰部分で1/3に区切られているのがお分かり頂けるでしょうか。ここで大切なのは船体の質感で、これが決して爽やかな白にならないよう、露出を慎重に決めています。おそらく評価測光よりも1/3か2/3程度はマイナスになると思います。
このローポジションからのアングルは「横たわっている感」がポイントです。その様子を見守るライダーと、小さく構成したR1200GSはディスクローターにハイライトを入れて存在感を確保。電線&電柱が悪さをしない位置にカメラ位置を微調整しています。ラッキーなアクセントは電柱から飛び立つ瞬間の鳶の存在です。
どうしてそんなゴミのようなものを真剣になって写真を撮るの?…道行く人は不思議そうに私を見ていきますが、これが私の好きなことなのです。本当に美しいのは現実の風景よりも心の風景であると知っているので・・・
これはいい、そう思った被写体や風景に出会い「〇〇のようだからこう撮ろう」と頭の中で想像する一枚。混沌とした感情の中で「心動かされた一つ」を探し、それをアウトプットしたい願望。
もの言わぬ被写体が旅人に何かを語りかけてくるような刹那を切り取る。そういった心象風景を自分なりに表現することの素晴らしさ。まずは一般に美しいとされているものを追うのをやめて、自身が美しいと感じるものの追求をはじめてみましょう。
その写真を発表したとき称賛もあれば冷ややかな反応もあると思います。これは個人的な表現なので賛否あって当然なのです。反応が薄かった時の寂しさを考えると、どうしても写真を良く見せようと盛ってしまう方向になりますが、勇気を出して「自分の場合はこうです!」という個性を貫いてみませんか?
きっと唯一無二の秀作が撮れると思いますよ。
今回はこの辺で!!
究極のツーリング写真 touring-photography.com 読者の皆さま、最近アクセス解析を見ているとアメリカから当ブログを見て頂くPV数がとても増えました。日本語で作っているサイトなので恐らく在アメリカの日本人の方が見て頂いていると思うのですが…毎日のように100PVくらいアメリカなので何かのサイトで紹介されたのでしょうか?不思議です…
さて今回は初級ツーリング写真のカテゴリーとして、写真ビギナーの多くの方を悩ます露出のお話を究極のツーリング写真流に解説してみたいと思います。ベテランの方はスルーするか「おさらい」で読んでくださいね。
露出とは写真用語でよく耳にする単語ですね。やれ露出が決まんないだの露出アンダーだのと。露出とはその単語の通り真っ暗な箱になっているカメラの中に、外の光をどれくらい入れてセンサー(またはフィルム)に光を露出させましょうか?というコトです。
簡単に言ってしまえば写真の明るさを決めるもの。あるいはそこにある光をどれだけカメラの中身に集めるか?という話です。
写真をどのような明るさにするか、カメラ内にどのくらい光を露出させるかは本来は撮影者が決めることです。しかしいつの時代からか、その部分はカメラのコンピューターにお任せ出来るようになりました。そして多くの一般カメラユーザーは当たり前のように露出をカメラにお任せするようになったのです。
露出を得るには大まかに2つの考え方があります。1つは現実の明るさの通りの露出で撮ること。もう1つは「こんな風に撮りたい」と撮影者がイメージする空想写真の再現です。前者は目で見た現実に近い明るさの写真で証明写真や見本写真など説明的な役割を持った写真に使われる露出です。
後者は多くの人が憧れる「いい写真」、つまりARTな写真としての露出です。これは必ずしも実際の明るさを再現した露出である必要はありません。
この2つははっきりさせておきたい重要なポイントで、特に後者の「イメージの再現」の露出はその後の工程である構図とも関係してきます。ここ、多くの写真解説で抜けている大事なポイントだと思います。
現実の様子を再現した説明的な露出は面白くもないですし、カメラの自動露出機能(AE)で得ることも可能です。正しくはグレースケールなるもので「適正露出」を得るのですが…この辺の話は割愛いたします。本解説ではARTな写真、いい写真を撮るための露出のお話としてすすめていきます。
露出を決める方法は主に絞りとシャッター速度の二者です。絞りとは大きさを自在に調整できるレンズ内の穴ポコです。大きい穴なら多くの光を、穴を絞りこんで小さくすれば光は僅か。シャッター速度とはガレージのシャッターと同じ「幕」が開いていた時間のこと。長く開いていれば多くの光を、短ければその逆です。
絞りとシャッター速度には光の取り入れ量の他に、それぞれ写真表現に役立つ別の役割があります。絞りは被写界深度といってピントが合う範囲の調整、逆に言うとボケ具合の調整です。これは作品の主題を浮き立たせるように演出したり、手前から遠景までシャープにして印象を狙ったりできます。
例えばこの写真。絞りを開いて被写界深度を浅く、つまりピントの合う範囲を小さくして前景の桜を大きくボカした表現です。大きくボカすことで手前の桜はカラーフィルターのように風景が透過し、合焦ポイントに置かれた主題を演出しています。
これとは逆にどこもボケていない全体がシャープにピントがきている表現方法もあります。もちろんその他にも沢山あります。この場合はこうだ!という決まりは無く、その被写体、情景の特徴を受けて撮影者の心が動いた一つを表現するにあたり、どの手法が今ぴったりなやり方か?撮影者自身が自由意志で選択するのです。
次にシャッター速度で魅せる写真の作例を見てみましょう。
こちらの作品はシャッター速度を遅くすることで動くもの、この場合は小湊鉄道の列車をブラし作品に動きを与えました。静かなる風景写真の中に動きを加えることで印象を狙う演出方法です。シャッター速度のコントロールは遅くすればスピード感、早くすれば瞬間の表現になります。
また別の見方をすると列車をブラしたことにより列車自体の存在感を落として、主題であるイチョウの木を際立たせて魅せる手法とも言えます。この作品のように列車、バイク、ライダー、そしてイチョウの木、といった具合に複数の被写体が作品に登場した場合、それぞれに正しい役割を与えて1つの主題へ導く秩序を組み立てないと「俺が主役!いや私が主役よ!」という秩序なき作品に陥ります。
各々の存在感の調整という意味でも被写界深度やシャッター速度の調整は役に立ちます。ちなみにこの作品はAEの露出値よりもうんとオーバー(明るい)な写真に仕立てております。こういった写真を「ハイキーな写真」とも言いますね。
はい、カメラのAEに露出をお任せすればこのようになります。
これは目で見た通りの風景なので考えようによっては嘘偽りない正直な写真と言えます。しかしこれは現実を切り取ったドキュメンタリー写真などではなく、作者の感動や美、心の針が触れた瞬間といった抽象的な心象風景が表現されていない記録写真に過ぎません。
こういった写真を撮って自分は演出などしない潔白なナチュラル派であると主張する人を見かけますが本当に可哀そうな方だなと感じます。
いい写真を、ARTな写真を目指すのであれば中途半端にナチュラルを意識するのはやめましょう。多くの場合で現実の様子はさして美しい訳ではなく、本当に美しいのはそれを受けて感動した貴方の心の中に存在しています。それを写真にするには露出をコントロールするのです。
この作品は上のイチョウの作品とは逆にローキー(意図的に暗め)な露出の1枚です。山桜の淡い色と雰囲気を出すのに選択した露出で、同時に見せたくない要素はシャドウ部分に沈めました。あたかも黒バック紙に浮かび上がる被写体という感じですね。こういった魅せ方はベテランの写真家にとって常套手段と言えます。
こんな感じの写真は写真ビギナーの方がすぐに目指すべきものではありませんが…ご参考までに。
絞りとシャッター速度はそこにある限られた光をシェアし合う仲です。しかし互いの要求で折り合いがつかない場面もあるものです。それは絞り込んで被写界深度を深くしたい、しかし風で揺れている草花はブラしたくはない、だが曇り空で光が乏しい…といった具合です。その場合は夜景シーンと同様にISO感度を上げて対応します。
ISO感度とはカメラの心臓部であるイメージセンサーをGAINアップさせて敏感にさせる調整機能です。ISO感度を500…1000…2000…と上げれば光の量が乏しくても写真に明るさを与えることが出来ます。多くの場合は暗い室内でカメラを手持ちで撮影する場合や夜景の撮影で使いますが、絞り込んで且つ風景を止めたいという要求にも補足的に使用できるのです。
しかし感度を上げ過ぎるとノイズが発生し写真のクオリティに関わる問題が発生するものです。ISO感度は原則としてISO100が理想であり、仕方ない事情があるときに上げるものと覚えましょう。
上のISO感度の話とは真逆に明るすぎて困ってしまうシチュエーションもあります。強烈な太陽光下でF1.8といった具合に絞りを開いて深度を小さくしたい時です。高性能なカメラでも1/8000くらいが高速シャッターの限界ですがそれでは不足してしまう時…。解決策は適切な明るさとなるまで絞り込むかNDフィルターというサングラスのようなフィルターをレンズの先端に装着するかです。
絞りはF値、シャッター速度は例えば1/125といった具合に絶対値で表現されます。10m先に置いたバイクに15m先にある桜の木、その両方にピントを合わせたい場合、レンズの焦点距離が85mmだとして、絞り値Fはいくつになるでしょうか??または60km/hで走りゆくバイクを焦点距離200mmのレンズで追う場合、イメージの流れ具合を得るにはシャッター速度はいくつに設定すれば良いでしょう??
ここですぐに数値が出てくれば苦労無いですね。しかし残念なことにコレばかりは気の遠くなるような反復練習によって感覚として養っていくしかなく、ネットで調べても写真教室に通ってもダメなものはダメです。ピアノやゴルフが上達するにはたくさん練習するしかないのと同じです。
ただ1つ、有効な練習方法があります。シャッターボタンを半押しした時、自動測光機能(AE)が算出した露出値がファインダー内に表示されますよね。あれを読み上げる習慣をつけるのです。F6.3で1/250とかF18で1/125とか、声に出してみましょう。すると少しづつですが望遠だと1/100以下じゃ手ブレしやすいな…とか、これくらい天気よければ絞ってもシャッター速度が落ちないな…といった具合に体験することで理解していきます。騙されたと思って実践してみてください。
数値の感覚が少しづつ掴めてきたら被写界深度で魅せたいときは絞り優先モード、写真に時間を与えたいときはシャッター速度優先モードを使ってみましょう。この撮影モードは多くのカメラに当たり前のように搭載されていると思います。
そしてこの両者による「写真の明るさ」を決める露出は自動測光(AE)です。カメラのAEは例え最新のカメラであっても多くの場合で撮影者が望む露出を得ることができません。常にAEを疑って積極的に露出補正をしてください。
目の前の風景に確かに存在している美しい光と影。しかしその様子は目ではよく確認できませんし、AEも目でみた明るさを求めるので同様にダメです。上の写真は光を捉えるために露出をコントロールした写真です。実際の様子より少しアンダー(暗い)な写真ですが、このように露出を選択することではじめて光と影の様子が見えてきます。
人間の目のAEは良くできていて現実の様子を脳に送るために適宜調整されています。しかし写真は人間の目よりも光をとらえる範囲がうんと限られていて、その範囲をうまく使うのがARTな写真です。ビギナーの方にとって少々難しい話ですが写真は写せる明るさの範囲(ダイナミックレンジ)に限りがあるからこそ、露出で魅せることに意味があるのだ…と覚えてくださいね。いつかこの意味が理解できる時が必ずきます。
~写真ビギナーの為の露出 まとめ~ ・露出は見たままの明るさを必ず再現する必要はない ・絞りは被写体を演出する表現手法 ・シャッター速度は写真に時間を与える表現手法 ・絞りとシャッター速度は限られた光量をシェアし合う仲 ・自動露出(AE)は絶対に信用しない ・数値は練習して感覚として覚えるほかにない
カメラ、写真に関わるあらゆるHowtoは世に溢れていて、露出についての解説も星の数ほど存在していますが、写真ビギナーの方にとって苦しい壁はここだろうな…と想像を馳せてユニークな視点で書いてみました。今回の解説で何か1つでもお役に立てたことがあれば嬉しいです。
究極のツーリング写真ではこのような解説をこれからも書いていきたいと思います。
究極のツーリング写真 tourimg-photography.com 読者の皆さま、「ツーリングの秋」いかがお過ごしでしょうか。コロナによる行動自粛もだいぶ緩和され、感染対策さえしっかりしていれば通常通りに出かけれられる世に戻りつつありますね。猛暑もひと段落しツーリングにも良い季節になってきました。あと写真にもいい季節ですね。
前回まででツーリング写真の魅せ方シリーズと題して、写真の魅せ方を色々と紹介してきました。魅せ方とは表現であり演出であること。そしてそれらを知識として身に付け実際に撮れるように習得したら次に<魅せ方>について自身の考え方を持つようにしましょう。こればかりは人の好き好きなので自分でどうするかを決めるしかありません。
そこで気になるのが写真を見せた時の反応です。お友達や家族に写真を見せた時、SNSやブログで発表したとき、コンテストに参加するときなど写真を見せたときの他人の反応です。これ…心理としてどうしても気になりますよね。自分は気に入った写真だけど果たして人から見てどうだろう?と。
いい写真とは常にみる側が主観的に決めるものであり撮る側としては永遠のテーマ。それ以前に撮った本人が「いい写真だ」と思える作品であること。撮った本人がこんなの好きではないけど他人に受けるかも…という気持ちで撮ったのであれば、私はそんな写真はいい写真ではないと思います。
確かに発表した時に反応が薄いと寂しいものがあります。せっかく自分なりの「いい写真」を撮ったのにコメントも入らず「いいね」も少ない…。こんな経験はありませんか?
それ、気にしなくて大丈夫です。そもそもSNSなんかで写真を発表したところで、その反応がどうであれ大した意味はないと思います。それよりSNSなどで万人ウケを狙って写真を撮るようになっては<自分の好き>を見失って個性が失われてしまいます。
上の作品はツーリングで出会ったふとした光景を1枚にしました。台風で倒れてしまった廃船。この写真の構造はこれといって手の込んだことはしていません。なるべく事実をストレートに表現する目的でこのように撮っています。念のため解説しておきますが地面や背景などスペースを意図的に多めにとることで「被写体がそこにあった」という場所に対する存在を表現できます。
このやり方で<ツーリング先で出会った〇〇>を表現しているだけです。引いてとると電線やガードレールなど本来は画面内に入れたくない要素が入ってしまうものですが、不思議なことにあれも撮るぞと思って撮ればそれほど悪さはしません。この場合は電線と電柱が入りましたが分かって撮っています。電線が入っちゃったと電線も入れたは大違いです。
この超地味な写真、撮った私自身はこれぞ今後の自分が目指す世界のヒントだ、と思っておりますがSNSなんかで発表すれば間違いなく薄い反応が返ってきます。しかしそんな事は全く気にしません。ウケよりも自分らしい写真を撮ることの方が大切だと理解しています。
映え写真を撮って「いいね」をたくさんもらう。すごい写真、上手な写真、綺麗な画像…世に溢れています。高性能なカメラやスマホ、広告写真のように仕上げるアプリ。これらは他の誰かが作ってくれた便利な物や情報の恩恵を受けただけ、画一化された「上手い写真」を目指して練習しただけの写真です。ふと考えてみましょう。個性はどこにいったのでしょうか?その写真の中に「撮った人の存在」は感じますか???
上の写真は稚拙ながらも一枚の写真の中に私の何かが写っています。一見、レンズのゴミか?と思う漁船の上にある黒い点。アゲハ蝶です。この誰も気が付かないミクロのキャストを採用するのは実に自分らしい演出だ!とニヤけてしまうナルシストです。
賛同していただける人は少数かもしれませんが、本当にこんな感じで良いんだと思います。少なくともアマチュアとして写真をライフワークにするのであれば。もし本当に写真がお好きであれば…もうやめませんか?他人から受ける写真を狙うのは。
自分の「好き」と向き合うのが一番素敵なことなんです。
今回はこの辺で!!
「何でもない景色」
その景色のなにがいいの?写真ばっかり撮っていて楽しいの?
他人から見れば私の旅は滑稽かもしれません。
特別、景勝地として知られている場所でもなければ話題のスポットでもない。
何でもない景色。
しかし、それは私にとっては特別な風景で
のちに記憶に残る尊いツーリング風景です。
あの日、あの時、私がそこで旅をした証。
被写体が何かを放つその空間の記録。
それらが一枚の写真となって静かな画になる。
写真を撮ったからこそ記憶に焼き付く風景だ。
例えばこんな何でもない港とか、地元の人の生活道路でもいい。
心に響いた小さな出会いこそが
いつか人生を振り返るときに
思い出す風景ではないだろうか。