憧れの一枚を撮るために【ツーリング写真】




EOS5D Mark4

今回は久しぶりに写真の話を書いてみます。

もちろんただの写真ではなくツーリング写真、バイク写真に関わることです。

「いい写真が撮りたい」これはカメラを手にする人の共通の願いですよね。

…いや最近ではカメラと限定せず、スマホでもいい写真は撮れますからね。

趣味であれ、職業であれ、大衆的であれ、写真家であれ…

撮るからには「いい写真」をこの手で実現させたい。

でも多くの人はなかなか叶わず… 果てには諦めモードで

「私にはセンスがない」といって嘆いたりします。




いい写真を撮るにはどうしたらよいか?

このスペースではこの疑問の全てを書ききれませんし

当然、私の知識も全く足りません。

ただ私の知っていることを端的に言わせていただければ

1.【いい写真】というのを自分なりに定義する

どう撮るのが正しいのか?と正解を求めたり

他の人がどう撮っているのか「お手本探し」をしない

お手本をトレースしただけの写真を撮らない

大切なのは自分ならどうなのか?という一個人の表現です。

バイク旅で出会った風景や被写体。それを受け自分はどう感じ、どう表現したいのか?感受性、表現力、個性をフル動員して一枚を生み出すのです。

きっちり「私」という個人を堂々と表現しましょう。

 

2.イメージの解像度を上げる

正解探しをしないと決めたら、そのシーンで撮ろうと思った理由を探してみよう。

言語化できればしても良いし 出来なければその感情をイメージするだけでOK

こう撮りたいという完成予想図、空想の写真、いつか額装して未来に見返すであろう

一枚の作品というの想像、空想、妄想、とにかく脳内でイメージしまくります。

そのイメージを漠然とさせるのではなく、詳細に解像度を上げてイメージしましょう。

ここ、あまり聞かない話ですけど20年写真をやっている私の話を少しでも信用していただけるのであれば、ぜひ信じて実践してみてください。




3.バイク旅にかける思いを投影しよう

写真にはテーマや主題となるものが要求されます。

他のARTと違い元になっているのが現実だからです。

ドキュメンタリー要素の強い表現の世界なので、このテーマや訴求感が薄いと、ただの記録的写真と混同されてしまうのです。

記録的な写真とはツーリングのレポート、記念写真、SNSで目立たせる承認欲を満たすための大衆写真、商用写真などのことです。

何しろ本人は作品のつもりで撮影しても、使っている道具は皆と同じカメラという機械なものですから、記録的な写真と表現としての作品の違いが曖昧で、訴求感を打ち出していかないと勘違いされるのですよね。

勘違いされてしまった場合の反応は「写真うまいですね」です。

この反応を受けてしまったら失敗ととらえるか、見せる相手を間違えたかのどちらかと覚えておきましょう。

とにかく「私の場合はこうです」と堂々と表現することです。少々大げさに言ってしまえば覚悟ですかね。

人と同じ写真を撮るのをもうやめにして、覚悟をもって個人として作品を発表していきましょう。それが自分なりの「いい写真」になるはずです。

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バイク旅ランキング

MOTOGUZZI V7special(850)に乗り換えて変わったこと




MOTOGUZZI V7スペシャルに乗り換えて4か月

慣らしも終了しODOメーターは現在6000キロ

もちろん故障やトラブルは一切なし

バイクが変わるとバイクの楽しみ方が変わる

ツーリングルートや行き先が変わる

乗り方が変わる

ウェアーもバイクに似合う新しいものが欲しくなる

(写真のレザーライダースはクシタニのアンフィニッシュドジャケット2)




なんだか別の自分になった気がする

それもそのはず

自分はBMWのGS一筋で20年

堅牢で先進的なツーリングの優等生から

伝統的で美しいイタリアンデザインを纏うV7に変えたのだ

コロコロと愛車を変える人にあまり良い印象はないけど…

でも心境の変化、心の成長、節目節目でバイクを変えるのは

実は素敵なことなのだな

モトグッチV7、今の自分にとって最高のバイクです




日本人の信仰心を今、取り戻そう




EOS5D Mark4
私たち日本人は信仰心をいま見直す時期ではないでしょうか?
神社、お寺の参拝をただの習わし、または観光気分で行っていないでしょうか?
そもそも全くそのような場所に行かない、食事の前に「いただきます」も言わない、神社とお寺の違いがよく分からない…といった方も多いのでは。
もちろん観光気分で参拝するのは悪いことではありません。
ただ時代が風の時代に変わったいま、日本人の信仰心をもう一度本来のものに取り戻したいと思うのです。
神社は神様が降臨する場所であり、その社の主祭神が祀られ祭祀が行われる場所、または自分という御霊のルーツです。
一方でお寺は仏様の世界でお釈迦様を模範とし成仏(悟りを開く)するための学びの場です。
多くの場合でお墓があり住職さんがそこに住んでいます。



神社は神道(しんとう)。天の神様(高天原)、地上の神様(葦原の中つ国)、八百万(やおよろず)の神様に守られ、宇宙のエネルギーと容易にコンタクトできる数々の神社があります。その数はコンビニより多いそうです。
お寺は仏教。生きる苦しみを和らげる悟りへと導く、お釈迦様の教えも学べる。この両者は互いが良好に親和して古くから日本人の信仰となっていました。二つの信仰が対立もせず調和している妙。
正に神々の美しき国【日出る国】
世界中探しても日本を置いて他にない。
私は日本人として生まれてきたことを心から嬉しく思い、なぜ自分が日本人なのか?という思いを巡らせています。
戦後、得体のしれない何かに奪われた、日本人の信仰心をいま取り戻そう。
まずは参拝のマナーを知り、日本書紀などの神話を読み返し、食事の際は米粒ひとつひとつに心から感謝して「いただきます」を言い、家にはお札を祀って朝晩祈ろう。
手と手を合わせて「祓え給え 清め給え」とお祈りをするだけで清らかな気分になれます。
(写真のバイクを停めている場所は神社の駐車場です)



MOTOGUZZI V7specialと初キャンプ




すごく不思議な感じなのですが

愛車をBMW R1200GS‐ADVからMOTOGUZZI V7specialに変えて

なんだか自分という人間もだいぶ変わったようが気がします。

前ほど距離や場所にこだわらなくなったし

バイクに対する見方も変わって

許容範囲が広がったというか

必ずしもバイクに立派な何かを期待しなくなった。





さらに興味深いのは

以前にも増してバイクという無機質な機械が

エネルギーを発する生き物のように感じる。

なぜなら私のV7は もう6000キロ近く走ったけど

噂に聞く故障やトラブルは全くもって皆無で

このバイクは私のことを気に入ってくれている

相思相愛状態なのでは?などど感じてしまうから。

愛おしい車と書いて「愛車」なのだと

数値で表せない 言葉でもうまく表現できない

そんな感覚でイイ!と思える謎の部分が

やたらハイスペックなバイクなのです。