究極のツーリング写真 touring-photography.com 読者の皆さま、皆さまは普通ですか??っと突然変な質問ですが、今回は普通か変わった人か?普通は果たして正しいのか?という少し変わったお話です。
当ブログでは以前より良き作品には個性があり作者の意図(表現)が明確であると書いてきました。しかし表現を考えるにあたり個性的に撮ろうと意識したところで成功するとは限りません。
例えば桜の風景。これを作品にしようと考えたとき普通だったら爽やかな青空のもと満開の桜を画面一杯に撮りますよね。しかしそれって良く見かける写真ではないでしょうか?「人と同じでは面白くないな」こういった天邪鬼的な発想が作品に個性を与えるきっかけになります。
この写真を撮ったとき、良いお天気で順光で撮れば爽やかな青空が背景になったはずですが、ここでは逆光側からカメラを構えて桜の花に輝きを与えてみました。青空は表現できませんが印象的な写真に仕上がったのではと思います。
たったこれだけのことで作品に個性が生まれるのです。
自分らしさを…なんて頭で考えるよりも効果的なのは脳裏に存在している誰かの撮った写真を削除することです。それは雑誌や広告にあるような写真だったりSNSやコンテストで見かけた自分の好きな写真であったり、いろいろですが無意識にそれらをお手本にしてしまうと当然ですが個性的な写真は成立しません。
しかし脳裏に存在している誰かの撮った写真イメージをそう簡単に消すことはできません。そこで効果的なやり方があります。自分は天才だと思うことです。自分は天才だと思っている人(または思い込んでいるでもOK)は誰かの写真を無意識に真似なんてしないものです。

個性的な写真を撮るとは天才を表現することと仮定しても強ち間違いではないと思います。もし気が引けるなら「才能を表現する」と置き換えても良いと思います。
誰かの撮った写真や好きな写真家の撮り方を真似するのは決して悪いことではありません。しかしどこかのポイントで真似は卒業して、あなたの才能を表現せねば真の個性は得られません。
もし自分の才能を開花させて(一般にデビューするという意味ではありません、自分で才能に気が付くことです)写真の表現を知れば真の素晴らしさを味わうことになると思います。私もこれを目指しています。
少なくとも究極のツーリング写真の読者の皆さま、ツーリング写真に興味があってこれを見ている方々は皆さん天才であると信じます。ただ経験やスキルなど今あるコマの位置がスタート地点にいるというだけで、内面にあるきらめく才能は眠りから覚める直前なのだと思いますよ。
何かと生きずらい現代社会。仕事や人間関係で「私は天才ですから」みたいな事をもし口にすれば、たちまち居心地の悪い雰囲気になるでしょう。しかしあなたが写真家として心の内に「自分は天才である」と思うのは誰にも迷惑になりませんし、損をすることもないです。
もし自分は天才と思うのがどうしても難しいようでしたら、ステップアップを果たしたいつかでOKです。今は少なくとも人と違ったものを撮れるよう良い意味での天邪鬼でいきましょう。それは賛否ある作品になるかもしれません。しかし誰にも似ていない個性的な作品ができあがると思います。